書評

読売新聞 書評欄

評・納富信留(ギリシャ哲学研究者・東京大教授)

『空海の座標』 高木訷元著

密教の奥義を追体験

 

 弘法大師空海が高野山に金剛峯寺こんごうぶじを開創して千二百年になる。奈良時代末から平安時代初期、唐で密教の奥義を授かり、その教えを日本中に広めた空海。彼がもたらした哲学とは一体何だったのか。

 空海の生涯や著作を長年研究してきた著者は、若き日の煩悶はんもんから、入唐時の活躍、帰国直後の成果報告、その後の雌伏、密教の宣揚という人生の軌跡を、各時期の代表著作を読み解きながらたんねんに追っていく。それは、私たち自身が仏教の奥義へと沈潜していく追体験であり、胸躍る精神の歩みである。

 空海は、言葉で示され論じられてきたそれまでの仏教に対して、その言葉に深秘を探る「密教」という別の次元を導入した。彼のすごさは、真意を体現する文字、つまり言葉に迫る力にある。インドで編纂へんさんされた仏典は漢訳され伝来したが、その限界を見てとり、梵語(サンスクリット)の音へと遡る。マントラを正しく唱誦しょうしょうする声明しょうみょうの教えである。

 言葉を正しく発音すると神秘的な力が発揮される。それは、真実の存在とは、根源の言葉であるマントラ、つまり「真言」そのものだからである。これが、空海が到達した境地であった。この世界を真言の発現として読み解き、真実在たるマンダラの深層に秘められた構造に迫る。そこで、現世の福祉も実現される。

 経典や僧侶の名前、あるいは教義の文言など、馴染なじみのない難しい漢字が並ぶのは、主題上仕方ないことであろう。だが、お寺参りや法事で耳にしたことのある言葉に、改めて深い意味や由来があることに気づかされる。普段仏教という貴重な文化遺産を顧みることの少ない我が身を恥じるばかりである。

 「いろは歌」や「五十音図」の作者とされることもある空海は、文筆の達人で、日本語と文芸、学問の創始者であった。千二百年という遠き時代におもいをせ、高い理想を持って生きた先人の哲学を吟味し、私たち自身も体験していく時であろう。

 ◇たかぎ・しんげん=1930年、島根県生まれ。元高野山大学学長。著書に『空海と最澄の手紙』など。

 慶応義塾大学出版会 2800円

 

2016年04月25日 05時24分 Copyright © The Yomiuri Shimbun